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2017.03.27 Monday

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    『 風 』  No.47 (4月15日発行)

    2015.04.27 Monday

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      ◆ 昨日は、フロンティア科の学科集会がありました。その内容に触れながら書きます。
       
      疑問を持つこと
       
      ◆ 教員を30年以上務めてきて、つくづく感じることがあります。「生徒をその気にさせるのは難しい」ということです。いくらこちらが伝えたいと思っていても、生徒が心を開かなければ、伝わりません。いくらこんな生徒に、選手に、進路にと思っても、生徒が本気でそう思ってくれなければ、そうはなりません。生徒の心の扉は内側にしかノブ(取っ手)がない気がします。生徒が自らの力で扉を開かなければ、私たちとの心の通路は通じないし、新しい世界との出会いはないと感じるのです。この扉を開けさせるのが難しい、つくづくそう思います。
      その点、自ら選んでフロンティア科に進学してきた生徒たちは、間違いなく自分で一つの扉を開けています。高校受験に際し、自主的自立的な我をもち、最終的には自分の意志でフロンティア科を目指した、そこを大事にしたい、と思います。
       
      ◆ 今年は、ものごとに疑問を持つこと、もっと外に違った見方はないのかと視点を変えることを話しました。ヒントは俵万智さんの息子さんのつぶやきにあります。
      歌人の俵万智さんは1962年、大阪生まれ。早稲田大学に進んで歌人の佐々木幸綱に出会い、歌を作るようになります。24歳のときに出版した第1歌集「サラダ記念日」が大ベストセラーに。生徒もよく知っていました。
       
      ・「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
       
      ・「また電話しろよ」「待ってろ」いつもいつも命令形で愛を言う君
       
      ・「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ
       
      ・「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの
       
      ・我という三百六十五面体ぶんぶん分裂して飛んでゆけ
       
      ◆ 2003年、出産。ですから今年で12歳になる男の子の母親です。男の子は俵さんの本では「たくみん」と呼ばれています。沖縄は石垣島に今は住んでいます。
      そのたくみん君9歳ごろからのつぶやきです。
       
      ・「先生ってさあ」と息子。「よく、前を見なさい!って言うよね」。まあ、あんたがよそ見ばっかりしてるからじゃない?「でもさあ、オレにとっては、見ているほうが前なんだよね」…ん?
       
      ・「や党と、よ党のあいだに、ゆ党ってないの?」。
       
      ・宿題を少しやっては「疲れた〜」と投げ出す息子。「遊んでいるときは全然疲れないのにね」とイヤミを言ったら「集中は疲れるけど、夢中は疲れないんだよ!」と言い返されました。
       
      ・友達の不注意で、右手親指を負傷した息子。相手は謝らず、冷戦状態。「今日はひとこと言ってやる」と登校した。「何て言ったの?」と聞くと「おまえのせいで、オレは毎朝うんこを左手でふいている!」…相手は吹き出し、仲直り。
       
      ・息子が、あまりに偉そうな口をきくので「ナニ様のつもり?」とたしなめたら「…お子様」との返し。
       
      ・今朝の息子との会話。「おかあさん、寒いね」「うん、寒いね」「…こたえる人がいても、やっぱり寒いね」「う、うん!?」
       
      ・息子と話していると「ネタか!?」と思うことが、しばしば。今日も夕飯のとき、キュウリの漬物を手で食べたので注意したら、「は・し・や・す・め」と言われました。
       
      みずみずしい感性で、先入観がなく、柔軟ですね。既成概念にとらわれない着想や工夫を時代は求めている、そういうことを考えています。
       
      ◆ 俵さんは「かーかん、はあい」という本の中でこう書いています。
      「たくみんはかみさまから、なにをもらったかな?」と聞くと「うーんとね、げんきでしょ、かっこいいでしょ、よくねるでしょ、ごはんがすきでしょ…」「いっぱいあるねえ。じゃあ、おかあさんはなにをもらったと思う?」俵さんは「やさしい」とか「りょうりがじょうず」「たんかがじょうず」という答を密かに期待しますがたくみん君の答はちがいました。「わかった!おかあさんがもらったのは『たくみんが、うまれる』じゃない?」でした。たくみん君4歳の時のことです。「この答を、私は一生忘れないだろう」と。
       

      『 風 』  No.46 (4月8日発行) 〜始業の日、学校長の話〜

      2015.04.08 Wednesday

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        ◆ 今年も感じたことや学んだことをお伝えしたいと思います。昨年度は45号まで出すことができました。今年も自らにチャレンジの思いです。まずは、始業式の話です。
         
        未見の我
        ◆ 今井雅之さんという俳優がいます。1961年生まれですから、私とほぼ同じ年齢の方です。彼は30歳の時に文化庁主催の芸術祭で、史上初めて原作・脚本・演技の3賞を受賞した役者です。その2年後には国際連合の芸術賞も受賞しています。その人に「若いぼくらにできること」という本があって、その中で「夢は叶えるためにある、叶うからこそ夢だ」と言っています。
         
        ◆ 彼の夢は、小さいころは漫画家、次いでプロレスラー、そしてプロ野球選手と、その時代時代のヒーローですね、子どもだったら描きそうな夢です、成長とともにそうやって変わっていきました。そして、行き着いたのが「人の心を動かす仕事がしたい」ということで、役者でした。
        その役者になるという夢をかなえるためにどうしたかというと、高校を卒業すると自衛隊に入るのです。自分の体力と精神力をまずは鍛えようとするのです。自らの限界への挑戦です。そうしないと人の心を動かすことはできないと考えたのです。そこで、すさまじい体験をします。たとえば、戦闘訓練では、完全武装をして、それだけでもヘルメットをかぶり、重い装備を付けて、十分体に負荷がかかるのですが、そこに4.4キロもある銃を抱えて、200メートルダッシュをし、匍匐するのです。息も絶え絶えですよね。その繰り返し。終わると、10マイル走る。約16キロです。それが終わると、腕立て90回、腹筋50回、銃を前にささげたままスクワット100回が待っています。新人たちはバタバタ倒れ、病院送りになったそうです。そこを「夢をかなえるためだ、絶対役者になってやる」と歯を食いしばって耐えるのです。年配の先輩、Tさんという指導役の教官が出てきます。この人が鬼のように怖い。この人に威圧されながらみんなついていくのですが、この教官、射撃はうまいし、走れば早いで、化け物のような体力を持った人で、一緒に全メニューこなして、新人たちがついてくるのを待っているような人だったそうです。だから怖い。
        ある日、今井さんは熱があって、ふらふらしながら訓練に参加し、少し、ズルをします。すかさず、Tさんがやってきて、銃のお尻のとんがったところでヘルメットの上から殴ります。そこで気合が入って何とか午前のメニューを終えます。しかし、昼には40度を超える熱になって、とうとうベッドに寝かしつけられます。もうこのころになると訓練を休むことが罪悪感になって、心の中は「T教官に悪い」という気持ちしかありません。やがて、医務室に、T教官がやってきて「さっきは悪かったな。熱があったんだな。早く治してまた一緒に訓練しよう、な」と優しい言葉をかけてくれます。今井さんは、胸がいっぱいになって、高校生までは少し熱があったら、学校を休んでいたことを思い出すんです。自分で自分の限界を、壁を作っていたことを自覚するんです。そうして、「自衛隊で得たことは壁を乗り越えること。では、自分の壁とは何か。それは自分のどこまでが限界かということ。自衛隊での経験を通して、それまで高かった自分の壁が低くなった。そしてその壁を乗り越えることで、新しい自分と出会えた。それがすごくうれしかった」と書いています。未見の我との出会いです。
        その自衛隊は2年で辞めて、その後、大学に行って、役者の道を進むのですが、そのときもまた自分の限界に、壁に挑戦します。体力への挑戦として東京から大阪まで野宿で10日間で走ったり、飢えへの挑戦として東京の奥地の山にナイフと塩だけを持って1週間こもったり、寒さへの挑戦として極寒の北海道を稚内から函館まで寝袋なしで歩いたり、青森から九州までマラソンしたりしています。こうやって役者魂を身につけていくのです。
        ◆ 去年は自分で自分に蓋をしてはいけないという話をここでしました。蚤の話です。今年も君たちの可能性は無限大だという話です。壁はあります。でも夢に向かって努力することで、その壁は低くなり、その壁を乗り越えた新しい自分に出逢えるのです。未見の我との出会いです。『夢は叶う。思い強ければ。』今井さんのつい先日の41日のオフィシャルブログにこう書かれてあります。あれから50歳を超えた今井さんの思いは今も変わりません。
         
         
         

        『 風 』  No.44 (3月11日発行)

        2015.03.13 Friday

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          311日に
           
          ◆ あれから4年です。未だに平成23年3月11日の記憶は鮮明です。丁度、勤務していた学校では年度末の職員会議を行っていました。会議後、職員室で見入ったテレビでは、仙台空港に押し寄せる津波が映っていました。当初は、映画の特撮のようで、現実感に乏しかったのを覚えています。しかしすぐに、津波のすさまじい威力を目の当りにして、職員室中に声にならない声が次々に上がりました。
           
          ◆ 今年は、2年生の修学旅行が南三陸町でボランティアに取り組みました。
           県のホームページのトップから→県政情報→総合政策→その他→みやざき感謝プロジェクト(平成26年度の取り組み)に「修学旅行における被災地視察ボランティア活動」として、紹介されています。「男子は海水浴場における危険物除去、女子は仮設住宅における清掃活動のボランティアで復興を支援しました」とあります。
           高校単独の取り組みとしては画期的なことだと思います。生徒アンケートも62%が「大変よかった」と答え、「よかった」の28%を加えると満足度は9割にも上ります。この取組みが生徒たちの心に生き続けることを確信しています。
           
          ◆ 4年経った今でも、被災された方々の思いは計り知れません。その一端にでも触れることができたらと思います。
           2012年度の高校生平和大使に選ばれた福島県立小高工業高校電気科3年高野桜さんのスピーチから。
           「東日本大震災とそれにともなう原発事故による放射能汚染のため、福島県民である私の生活は一変してしまいました。
          …(中略)… 
          平和とは日常生活が普通に送れることだと思います」
           
          ◆ 岩手県立大槌高校の実習教諭、松橋郁子さんが学校の文集に寄せられた文章。
          「沿岸で生活するということは、常に津波が来ることを想定していなければなりません。津波は、今回初めて来たのではなく今まで何度も何度も来ています。ここは、津波の常襲地域です。そして、そのたびに今回のような被害がでたのです。でも、私たちの先人は復興を成し遂げました。だから、今回も復興までは時間はかかりますが、必ず復興すると信じています。そして、私も沿岸に住む者として、この復興に関わりながら生きていきます」
           
          ◆ 福島県の県立高校の教諭(当時は保原高校に勤務されていました)で、自らも被災し、その時々の思いを現場からツイッターで詩として発信した詩人、和合亮一さんの詩。
           
              ロングパス
                子どもと自転車でここまでやって来た
                今まで 一番 遠いところまで来た
              私も彼も 上機嫌だ
              やわらかな風 子どもの前髪が優しく揺れて
           
            自転車のカゴのサッカーボールを取り出し
            私も 彼も 蹴り続けるのだ
            今までで いちばん長いパス
            すると彼も 蹴り返してくれる
           
            夕焼けに向かって
            福島の子どもはロングパスをする
            この先の歴史へ
            この街の季節へ
           
            涼しい風が吹いてきて
            さあ家へ 帰ろうか この一番の旅を
            私は 昨日のように思い出す 二人で
            ふるさとを 後ろの荷台に乗せた日を
           
          ◆ 千葉県の高校が行ったアンケート、「当日の課題」から。
          ・ 本校は千葉市から一時避難場所に指定されているが、避難所ではないため、備蓄品(毛布・水・食料・灯油等)が全くなく、そ
           れらを調達するのが大変であった。

          ・ 災害発生時に電話やメールを活用するのはかなり難しい。
          ・ あまりにも大きな地震であったため対応に躊躇するとともに、放課後の震災であったため、対応マニュアルが機能しなかった。